7 植物



第7回サイファイ・カフェSHE札幌のお知らせ


日時: 2019年3月23日(土)16:00-18:00

テーマ: 植物の生について考え直す

講 師: 矢 倉 英 隆(サイファイ研究所ISHE)

場所: 札幌カフェ 5F スペース

 札幌市北区北8条西5丁目2-3 

会費: 一般 1,000円、学生 無料
(飲み物は各自お持ちください) 

今回は、最近特に注目を集めている植物という我々の認識の背景に押しやられることが多い生物について考えます。人類の歴史の中で植物はどのように見られてきたのか。その歴史から、われわれの認識をどのように評価するのか。最新の科学の成果やわれわれの観察を通して植物の生に対する新たな見方を模索し、生物が持つ「知性」についても植物を通して見直すところまで行くことができればと考えております。いつものように講師から見たこのテーマについての問題点を概説した後、参加された皆様に議論を展開していただきます。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。よろしくお願いいたします。
(2019年1月31日)

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会のまとめ

第7回サイファイ・カフェSHE札幌、無事終わる(2019.3.23)
 

 今回は、リピーターの方3名と初めての方3名が参加された。週末のお忙しいところ参加いただいた皆様には改めて感謝したい。
 いつものように、サイファイ研究所ISHEのミッションと活動について紹介してから本題に入った。植物について考えてみようと思ったのは、全くの個人的動機である。退職の2年ほど前から昼休みの散策を始めるようになった。終わりが見え、省察の時間を求めていたのかもしれない。終わりを意識すると人間は哲学者になるのだろうか。いずれにせよ、2年間の散策でそれまで全く視界に入っていなかった、あるいは視界にはあるものの意識されていなかった植物の存在、さらに言えばその美しさに目を奪われるようになった。それだけではなく、1年のサイクルを追っていると、「彼ら」は確かに生きていることが分かるようになった。春先の軽快な緑や梅雨の時期に始まる深みを見せる緑、そして完全に葉が落ちた後の枝が描く芸術的な線など、驚きをもって眺めることになった。植物は地球上のバイオマスの80%以上を占めると言われる。それにもかかわらず、なぜわたしは植物に対して注意を払って来なかったのか。それはわたしだけの問題なのか、人間の植物に対する見方の問題なのか、という疑問が湧いてきた。それが今回この問題を考えることにした理由である。
 手始めに、西欧における植物に対する態度について調べてみた。西欧思想の特徴として、「もの・こと」を二つに分けて考える二元論的思考が挙げられる。例えば、文化と自然、人間と自然、こころと体、理性と獣性、主体と客体、主人と奴隷、自己と他者など、現代に至るまで根強い力を持つ思考であるが、それに対する批判も出されている。フェミニズム研究者のヴァル・プラムウッド(1939-2008)は、人間とそれ以外の自然を分ける思想や優越・支配の視点を批判し、人間を他の生物と同じ生態学的関係の中に置き直し、人間以外の生き物についても倫理的思考を取り入れるように主張している。それから、人間には日常生活の中で植物に注意を払わないとか、植物を動物の背景にあるものとして考える傾向があるという指摘がある。それを"Plant Blindness"と呼び、その背後には動物と植物の持つ時間の違いや植物の生理一般に対する我々の無知や誤解があると主張する人もいる。
 歴史を辿ると、古代ギリシアのプラトンは、理性が自然や物質よりも優れているという序列化された二元論を唱え、植物は人間のために作られた受動的でこころを持たない存在とした。また、アリストテレスは生物の能力を、「栄養」、「感覚」、「知性」に分け、植物には感覚と知性がないと見做し、植物を動物や人間の下に置くヒエラルキーを構築した。これらの人間中心主義的な考え方は西欧哲学やキリスト教の基盤を形成することになったと言われている。アリストテレスの学友で、アリストテレスの死後リュケイオンの学頭になったテオプラストス(371 BC-287 BC)は、植物学の祖と言われる。それまでのように、動物や人間との関係で植物を見るのではなく、植物をそれ自体のための存在として詳細に観察しようとした。その結果、動物との関連や連続性を強調することになる。植物も自律や目的に向かう欲求、意志、こころを持つ存在であると考えたのである。これらの考え方の違いには、「排除の(エクスクルーシブな)哲学」と「包括の(インクルーシブな)哲学」の傾向を見ることができるだろう。
 ローマ時代の大プリニウス(22/23-79)はその後千年に亘る植物学の権威となるが、植物は理性的な人間のために存在すると考え、農業や医薬に重点を置いた。その後15世紀ごろまでは植物学の暗黒時代と言われる。16世紀に『植物分類体系』を書き、分類学の先駆けとなったアンドレア・チェザルピーノ(1519-1603)も植物を感覚と運動を欠く生物というアリストテレス流の見方を採っていた。17世紀に入り『ノヴム・オルガヌム』(1620)を著し、アリストテレスの哲学を批判して新しい科学的方法を確立したフランシス・ベーコン(1561-1626)は、人間は逆様になった植物であると言ってもよいだろうとしている。なぜなら、動物の神経に当たるのが植物では根で、種子(生殖に関与するもの)は最上部にあるからである。実に興味深い見方である。BBCのあるドキュメンタリーでは、それを以下のように表現していた。


 植物の根に関しては、ダーウィン(1809-1882)の『植物の運動力』(1880)に、「このように感受性と隣接部の運動を指示する力を持つ根の先端は、脳が体の前に位置し、感覚器から印象を受け取り、いくつかの運動を指示している下等動物の脳のように振る舞うと言っても過言ではない」との記載があり、植物の根と動物の脳の関連を示唆する仮説とされている。これは植物に感覚と神経の要素を取り込んでいることになり、生物の共通祖先という概念と併せてアリストテレス的見方からの自立と言えるだろう。20世紀に入り、例えば、インドのポリマス、ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース(1858-1937)は、自作の機器を用いて植物の刺激に対する反応を測定したところ、動物との差はなく、植物も感覚、知性、記憶を持つとした。ただ、知性をどう見るのかについては議論があるだろう。知性を人間中心主義的な立場から定義しようとすると主観的な要素が加わるため非常に難しいものになり、共通の土俵で議論ができない可能性がある。その上、人間を出発点とすると、知性を有する生物は極めて限定的になりそうである。その状況を回避するための一つの方法として、生物学的な定義を適用することが考えられる。例えば、ダーウィンは『人間の由来』(1871)で「知性とは、ある種が生存のために必要なことをどれだけ有効にできるようになるのかに基づいている」としている。現代では、個体や種とその環境との適応的関係の中に「思考」を見ようとするフランス人科学者アラン・プロシアンのような人がいる。思考や知性の存在には脳やニューロンが必要なのかという問いが現れる。
 最後に、アメリカの歴史学者リン・ホワイト(1907-1987)が『人類の環境危機の歴史的根源』(Science 155: 1203-7, 1967)で考察したことについて触れた。その分析によると、環境破壊は人間中心主義的傾向(人間が自然より上位にあるので自然を征服の対象としてもよい)や反・汎神論(樹は単なる物質で「聖なる森」などない)の立場を採るキリスト教の影響が大きいと見ている。問題の根源に宗教があるとすれば、その解決も宗教であるべきだと考えている。そこで提唱しているのは、禅や仏教は歴史が違うので西欧には適用できないだろうが、人間を神の創造物の最上位に置くのではなく、すべての創造物を民主的に見て愛でるというアッシジのフランチェスコ(1182-1226)の異端とされた思想である。彼は鳥や狼などにも説教したと言われ、ホワイトはフランチェスコを汎心論者として見ており、エコロジストの聖人とするように提言している。そして1980年、ヨハネ・パウロ2世によって「自然環境保護(エコロジー)の聖人」に指定された。日本にも汎神(心)論的世界観があるとされるが、それにもかかわらず環境破壊は西欧と同じように起こった。「草木国土悉皆成仏」の世界観を強調するだけで今の状況に対抗できるのだろうか。そもそも思想的、倫理的脆弱さがあるように見える日本において、生き方に及ぶ新しい明確な思想を確立し、それをできるだけ多くの人に浸透させることはできるのだろうか。


参加者からのコメント

● 飛び入りにもかかわらず、温かく迎えてくださりありがとうございました。哲学について人と共有することがこれまでなかったため、その機会を与えてくださり感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。

● 本日は大変楽しい会を開催して下さりありがとうございました。また次回の日程が決まりましたらご教示頂けましたら幸いです。自分がやりたいのは可能かどうかはともかく、科学と哲学が渾然一体であった時代の古き良き『自然哲学』みたいなものなのではないか?と最近は思うようになりました。これから狭義の『科学哲学』を学びつつもそれに縛られすぎないように、自分の哲学的関心の枝葉を伸ばしてゆけたらと考えております。今後ともご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

● とても刺激を受けました。年齢や性別、専門分野を超えてお話ができる機会をくださりありがとうございました。まだ知らないことが沢山あること、それを楽しく感じている自分がいることを嬉しく思います。矢倉先生、ご一緒させていただいた皆様方に感謝致します。今後ともどうぞよろしくお願いします。


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(2019年3月25日まとめ)






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