13 免疫論を読む (1)



第13回サイファイカフェSHE 札幌



テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史

日 時: 2025年4月12日(土)15:00~17:30 

会 場: 京王プレリアホテル札幌 会議室

札幌市北区北8条西4丁目11-1



参加費: 一般 500円、学生 無料


カフェの内容

今回から、参加者からの提案を受け、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み解くことにいたしました。第1回目は、その第1章「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」を取り上げます。免疫学の理論史、思想史のような内容ですが、そこに科学という営みの特徴や哲学との関連が垣間見えることと思います。参加予定者は前もってこの章をお読みいただいた上で参加されると、免疫に関する理解が深まると思います。

札幌での会はこれまで年2回の開催でしたが、今年は試みに春、夏、秋の3回として本書を読み終える予定にしております。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。 
テクスト: 『免疫から哲学としての科学へ』第1章(みすず書房、2023)


会のまとめ















今回は新しい方が1名加わり、定員オーバーの10名の会となった。免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む予定でスタートした。本章のタイトルは「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」で、以下のような構成になっている。

 1 「免疫」という言葉、あるいはメタファーについて
 2 免疫学が確立される前に明らかにされていたこと
 3 近代免疫学の誕生
 4 新しい選択説の出現
 5 免疫を担う主要要素はどのように発見されたのか
 6 免疫反応の開始はどのように説明されたのか
 7 クローン選択説に対抗する新しい理論的試み
 8 新しい理論的枠組みを生み出すもの

この内容に入る前に、本書がどのような意図のもとに書かれたのかということについて触れた。それは、「はじめに」のエピグラフとして引用したアンリ・ベルクソン(1859-1941)の次の言葉に象徴されている。
生物学者に対して生命が思考によってしか理解されないと・・・予告することよりも大胆な新しいことがあろうか。(河野与一訳)
その方法論として「科学の形而上学化」(MOS)を用いた。詳細はサイファイ研究所ISHEのサイトを参照していただければ幸いである。


本章では、免疫という現象を研究対象にする場合に解決しなければならない問題――例えば、どのように無数の微生物を処理しているのか、そのために免疫反応はどのように始まり、そして制御されているのかという問い――と同時に、免疫を担っている重要な要素であるB細胞抗体T細胞T細胞受容体主要適合抗原遺伝子複合体(MHC:ヒトではHLA、マウスではH-2)などがどのように発見されたのかという時間的な流れについても振り返った。このような作業は、すでに出来上がった知識を学ぶという過程では得られない立体的な知を手に入れる上で重要になると考えているからである。

第1節では、古代ローマでは政治的な意味を持っていた「免疫」(immunitas)という言葉がどのような経緯で現在のような医学的な意味で使われるようになったのかを振り返っている。このようなメタファーを有効に使うことにより、ものことの本質に迫ることができないかという想像をしている。

第2節において、免疫という現象が観察された古代ギリシアのペロポネソス戦争(431-404 BC)のエピソードが紹介される。アテナイの歴史家トゥキュディデス(c. 460-c. 395 BC)による『戦史』からの引用があり、そこに病気から免れる際の特異性と記憶が記されていると解釈し、免疫理論は少なくともこの2つの現象を説明できるものでなければならないとの考えが示される。この節では他に、種痘に関わったメアリー・ウォートリー・モンタギュー(1689-1762)やエドワード・ジェンナー(1749-1823)、弱毒菌を用いた病気の予防法を開発したルイ・パスツール(1822-1895)の仕事が紹介されている。ただ、この時代には免疫のメカニズムはいまだ闇の中であった。

第3節では、19世紀末から始まった、何が免疫を担っているのか――具体的には、細胞なのか液性因子(抗体)なのか――という問題についての対立と、抗体はいかにして多様な抗原に対応しているのかという問題についての対立が紹介される。最初の対立において細胞説を唱えたのは、ロシア出身でパリのパスツール研究所で研究していたイリヤ・メチニコフ(1845-1916)である。彼はヒトデの幼生を顕微鏡で観察している時に、可動性の食作用を持つ細胞が生体防御に関与しているのではないかというアイディアが閃き、確認した。そこから免疫の主役は食細胞であるという理論を構築した。一方の液性説を唱えたのは、エミール・フォン・ベーリング(1854-1917)やパウル・エールリヒ(1854-1915)を中心とするドイツの研究者であった。普仏戦争(1870-1871)の影響もあり、両者の対立は激しいものだったが、学問的な交換は実り多いものであったという。なお、フォン・ベーリングの研究には北里柴三郎(1853-1931)の貢献が大きかった。最終的には細胞説も液性説も免疫の一部を説明するものであることが明らかになるが、量的な解析ができることや血清療法の成功などもあり、抗体の研究が20世紀前半のセンターステージを占めることになった。

もう一つの問題――多様な抗原に対する抗体産生のメカニズム――における対立は、選択説と指令説と呼ばれる異なる考え方の間で見られた。選択説とは、抗体は何らかのメカニズムにより予め準備されていて、抗原は出来上がっている抗体の中から自分に合う受容体を持ったものを選択すると唱える。エールリヒが1900年に発表した側鎖説は、細胞表面に種類の異なる側鎖(異なる抗原に結合する受容体)が多数存在し、対応する抗原が結合すると細胞が活性化して同じ側鎖を大量に産生し、最終的には細胞膜から分泌されるとする。しかし、その後の研究で、生体は無数の抗原に対する抗体を産生し得ることが明らかにされると、一つの細胞に無数の側鎖(抗体)が存在することは不可能となり、側鎖説は退けられることになった。そこに登場したのが指令説である。これは、抗原が鋳型となって抗体の産生過程に直接関与したり、間接的に酵素を介して抗体産生に指令を出したりするというものである。この説によれば、どんな抗原が入ってきても抗体を作ることができるという利点はあったが、いくつかの免疫現象を説明できないという重大な欠陥があった。例えば、抗原がない状態でも抗体が産生されること、二度目の抗原刺激で反応が早く強いということ、免疫反応後期に見られる抗体の親和性の増強など。その結果、指令説は葬り去られることになった。

第4節では、その後提出される抗体産生における新しい選択説が紹介される。まず、1955年にニールス・イェルネ(1911-1994)により提唱された自然選択説について説明があった。彼は、将来で出会う可能性のある抗原に対する抗体分子(彼は、自然抗体と呼んだ)は、メカニズムは不明だが、血清中に予め存在すると仮定した。その上で、抗原が親和性の高い抗体を選んで結合し、細胞内に取り込まれた抗原抗体複合体から解離した抗体が抗体産生を誘導すると想定した。この説は自然抗体の存在や2次反応増強だけではなく、自己抗体の不在を体内の自己成分との吸着によるとすることで説明可能にした。しかし、抗体が抗体産生を誘導するということはなく、最終的にはこの説も認められなくなった。イェルネについては次回でも取り上げる予定だが、一つの現象を説明するための理論の構築に力を注いだ科学者で、一つの科学のあり方を体現したところがあることを指摘しておきたい。

1957年にはマクファーレン・バーネット(1899-1985)がクローン選択説を提唱した。この説の前提として、(1)未知のメカニズムにより多様な特異性を持つ抗体が予め産生されている、(2)各細胞は原則1種類の抗体を受容体として持っている、(3)免疫反応には抗原に対応する細胞の増殖が必要で、最終的に抗体産生細胞と記憶細胞になる、(4)自己に反応する抗体を持つ細胞は胎生期に除去される、という4つを挙げた。この説は、自己反応性の除去が発生の初期から細胞の分化段階の初期に変更された他は大筋で現象をうまく説明できるため、免疫学のパラダイムとなった。

第5節では、免疫を担う重要な分子――B細胞、T細胞、T細胞受容体、主要組織適合抗原遺伝子複合体(MHC)――がどのような経過で明らかにされたのかが説明されている。B細胞の発生臓器が鳥類で初めて発見されたのは1956年のこと。当時オハイオ州立大学の大学院生だったブルース・グリック(1927-2009)は、総排泄腔の背側にあるファブリキウス嚢を摘出して、1621年に発見されて以来不明のままであった機能を研究していたが、明らかにできなかった。しかし偶然にも、同僚が抗体産生の学生実験用に鶏の提供を依頼してきたという。それが抗体の産生に関与するB細胞の発生臓器の同定に繋がったのである。やはり臓器の生直後の摘出により、胸腺がT細胞の産生に関与することをジャック・ミラー(1931-)が1961年に報告した。さらに、1965年にはロバート・グッド(1922-2003)とマックス・クーパー(1933-)が、T細胞とB細胞は別の系統に属する細胞であること、それだけではなく、免疫システムには中枢臓器(胸腺と鳥類ではファブリキウス嚢、ヒトでは骨髄)と末梢臓器(脾臓やリンパ節など)という2つの軸があることを明らかにした。

次に、由来は明らかになったT細胞だが、その認識機構に関しては不明のままであった。初期にはB細胞とのアナロジーで、T細胞の抗原認識に関わる分子も抗体のように細胞表面から分泌されるという仮説も出されたが、証明されることはなかった。1973年、ロルフ・ツィンカーナーゲル(1944-)とピーター・ドハティー(1940-)は、ウイルスに感染した細胞をキラーT細胞が殺すことができるのは、感染細胞とキラーT細胞のMHCが同一の時であることを発見した。これは、T細胞の認識がウイルスという抗原とMHCという自己を特徴づける分子の両方に向かわなければならないことを意味している。そして、その翌年の1974年、T細胞には抗原とMHCを別々に認識する二つの受容体が必要になるという説と、MHCが何らかの形で抗原によって修飾されたものを一つの受容体が認識するという説の妥当性が検討され、後者の仮説が正しいことが明らかになった。さらに、1987年にはパメラ・ビョークマン(1956-)らにより、MHCの構造解析が報告された。それによると、MHCのポケット状の構造の中に抗原のペプチド断片が入っており、その複合体を一つのT細胞受容体が認識していることが想像された。移植の際の障壁になる自己を特徴づけるMHCだが、その機能は抗原を提示することだったのである。MHC分子自体は1936~37年に、ピーター・ゴラー(1907-1961)によりマウスで最初に発見されているが、40年近くの時を経てその機能が明かされたことになる。

第6節では、免疫反応の開始と自己成分に対する反応性がどのように調節されているかについて、免疫学者はどのような説明を与えてきたのかについて振り返った。バーネットがクローン選択説を提出した時(1957年)には、抗体産生に関わる細胞だけが考察の対象であったため、その細胞が未熟な時に抗原に出会うと細胞死に至り、成熟細胞の場合には活性化・分化して抗体を産生するようになると考えた。1970年にはピーター・ブレッチャーメルヴィン・コーン(1922-2018)がB細胞は抗原(シグナル1)だけではなく、T細胞からのシグナル2を受け取らなければ活性化しないとする2シグナルモデルを提唱した。その後、この舞台に抗原提示細胞(APC)が登場し、T細胞が活性化されるためには、まずAPCが活性化しなければならないことが明らかにされた。そこで問題になったのが、何がAPCを活性化し、抗原特異性のないAPCがどのように自己と非自己を識別しているのかであった。

この問いに答える素晴らしい仮説を提出したのが、チャールズ・ジェインウェイ(1943-2003)であった。ジェインウェイは1989年、免疫システムはリンパ球が自己と非自己を識別するためだけではなく、自己には存在しない微生物の分子を識別するために進化したとする「感染性非自己と非感染性自己」の識別理論を発表した。その際、微生物の分子を「微生物関連分子パターン」(MAMP:microbe-associated molecular pattern)と呼び、それを認識する分子がAPCのような細胞に存在すると考え、パターン認識受容体(PRR:pattern recognition receptor)と名づけた。そして1996年、ジュール・ホフマン(1941-)らにより、最初のPRRがショウジョウバエで同定された。

しかし、これで問題がすべて片付いたわけではなかった。1990年代に入り、免疫反応の引き金を引くのが微生物だとすると、移植の拒絶など説明できない現象があるとして異議申し立てをする研究者が現れた。ポリー・マッツィンガー(1947-)である。彼女は、宿主にとって有害かどうかが免疫反応を決めているとする危険理論を提唱した。その際、細胞への傷害によって生じる分子を「傷害関連分子パターン」(DAMP:damage-associated molecular pattern)と呼び、これがPRRにより認識されることが免疫反応の引き金となり、T細胞、B細胞の活性化へとつながっていく。マッツィンガーは当初、かなり挑戦的な姿勢でクローン選択説やジェインウェイの説を攻撃したが、現在ではAPCの活性化は微生物(MAMP)でも傷害された細胞(DAMP)でも起こり、免疫反応のクローン性についても否定することはない。免疫を担う主役が細胞でもあり抗体でもあったのと同じように、これらの説はそれぞれが免疫反応の開始メカニズムの一部を説明するものであったということになる。

今回はここで時間切れになったので、次回(8月2日)は第1章第7節から読み始め、第2章に入ることにしたい。興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。





この日は異例の3次会も開かれた



(まとめ: 2025年4月16日)



参加者からのコメント


◉ 昨日は力のこもったゼミ、どうも有り難うございました。次回をまた楽しみにしています。


◉ 全体(哲学)と部分(科学)の2つの解析の織り成す循環が免疫学の歴史でもあると感じ、人類のあくなき探求を垣間見た気がしてとても興奮しました。仮説が条件によって破壊され、新しい仮説にとってかわる。それが、より客観的、俯瞰的になることで新しい発見が起き、それが最終的には、統一理論にまで繋がるイメージができました。

目に見える状態で観測しなければ、科学じゃないとノーベル賞を取得したシェルドン・グラショーも言ってましたが、例えば、虚数という数字は人間には観測できない数値であるにも関わらずに、その概念を数学方程式に入れることにより飛行機が飛ぶ、という現実的な実用まで至っている。このことから、科学という人間の観測領域だけでは理解できない世界が、哲学という全体を捉えた学問によって、解明されていくイメージが沸き、次回の参加もとても楽しみになりました。

ありがとうございました!


◉ 昨日はいろいろと教えていただき、誠にありがとうございました。非常に楽しい時間でした。外界の刺激の前から存在する細胞に関して外界からの刺激でその後の運命が決まるという点では、免疫細胞のクローン増殖は不均一であるがん細胞のクローン増殖(進化)と類似しているなと改めて感じました。

昨日問題になったCDR1とCDR2の遺伝子配列の多様性獲得のメカニズムというのは、抗原認識後の体細胞超変異の段階でCDR1とCDR2に変異が入ったクローンが有利で選択されるというメカニズムではなく、抗原認識前にV遺伝子のCDR1とCDR2だけに多様性があることのメカニズムということでしょうか?その場合だと、V遺伝子のCDR1とCDR2に変異が入り多様性が生まれるとそのような個体が免疫的に進化的に有利だったからでしょうか。

8月の会も参加できれば参加させていただきます。
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


◉ サイファイカフェSHE札幌 第13回の免疫論を読む(1)に参加させて頂きました。『免疫から哲学としての科学へ』を読むをテーマに、これまでにない参加人数(9名)で開催。免疫学という、微生物・外来異物への反応現象、生体の外との関連の中で個体の恒常性を保つ仕組み、そしてメタファーとしての免疫という用語の成り立ちからまずはスタート。外的要素との関連性から、生体反応の的確な観察、例えば免疫反応の強力化や免疫記憶など、生物としての人間集団の生体反応の的確な観察と正確な記述を基盤として、歴史的時間軸の中で熟考を重ね、仮説を提示するその熱量にまずは感嘆した。遺伝子はおろか、その現象の主役となる細胞の本態すら明瞭化していない時代に、そこまでの仮説を組み立てる思考能力に畏敬の念すら覚えざるを得ない。分子生物学、そして遺伝子組み換えといった人為的技術が高度に発展した現在を座標軸として、当時の思索、仮説を眺めてもその正確さに驚くこと頻りである。これぞ、免疫を軸とした科学者の哲学的思考の足跡と感じたのは自分だけではないと思う。あっぱれ。


◉ 昨日は大変楽しい会に参加させていただきありがとうございました。先生のお話は、主に免疫学のこれまでの歴史についてでしたが、既に確立された免疫についての知識の表層の部分を少しだけ知っている程度の我が身にとって、その確立に至るために多くの天才的科学者たちが多大なエネルギーを注ぎ込んで行なった仕事の事を思うと、結果はどうであれ、本当に頭が下がります。懇親会では、先生はじめメンバーの方々から、免疫や科学一般や哲学のこと、また言語や生死のことなど、興味深い話をたくさんお聴きすることができました。話は尽きず、野菜の育て方も丁寧に教えていただきました。次回も楽しみにしております。

先生以外の方のお話もという件につきましては、外部からの講師にお願いするという事であればよいのですが、内部の方のお話となると、お話する方の負担が大きくなりますので、慎重に考える必要があると思います。いずれにしましても、敷居が低く、広く開かれた会であってほしいと思います。


◉ 先日は、貴重な会を開催して頂きありがとうございました。先生の「科学の形而上学化」が具体的に展開される著書の学習は、知的な興奮を呼ぶものでした。また、懇親会では、医師ではない私にとっては、普段聞けない医師の意見を聞け、非常にためになるものでした。札幌では、こういう会は非常に貴重であり、人数が増えていくのも肯けます。


◉ 今回は参加者9名と過去最大の参加人数(?)となっただけあり、本会~懇親会を含めてより活発で様々な質問、感想、意見が取り交わされた感がありました。免疫の現象は紀元前の古代ギリシア時代に既に当を得て直観されていました。免疫という言葉自体はその後の古代ローマ時代に生成、その始原的な語義としては義務や負担からの免除に由来するものだったとのことです。病気から逃れる何らかのメカニズム(免疫)があるとの直観から由来していたにも関わらずそれに該当する医学的な用語が当時見当たらなかったせいか、法・倫理系の用語からヒントを得て作られたというのは、今考えると非常に示唆的です。”示唆的”というのは、免疫学という分野が追究されていく中で人間・生き物、自然の本質、さらに社会・倫理・法(人文系への敷衍には賛否両論はありますが)への思考を類推・誘発されやすく、従って”哲学的”思考にも馴染じみやすい主要な科学的分野の一つではないかという意味合いにおいてです。

実験生物学の黎明期である18世紀から免疫学の知見が積み重ねられていく中で、現代に至っては免疫を担う分子の同定が飛躍的に増加、それとともにメカニズムも複雑化しながら、アウトサイダー・マッツィンガーによる危険理論の提示等免疫という概念自体が広がり、再考も求められているといったexcitingな流れで第1回目講演が終了しました。

ありがとうございました。次回はどういう展開になるか今から楽しみです。


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