第16回サイファイカフェSHE 札幌
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む
(4)免疫を形而上学化する
日 時: 2026年4月11日(土)14:30~17:00
会 場: 札幌エルプラザ4F 特別会議室
〒060-0808 札幌市北区北8条西3丁目
参加費: 一般 500円、学生 無料
カフェの内容
『免疫から哲学としての科学へ』を読むシリーズの第4回目は、第5章「免疫の形而上学」と第6章「新しい生の哲学に向けて」を読み、本シリーズの締めくくりとする予定です。これまで検討した科学の成果について、抽出作業を行った後に哲学における蓄積を援用して免疫に潜む本質となる性質を明らかにしようとする「科学の形而上学化」(MOS)の過程が明らかになると思います。それをもとに、これからの免疫、さらに広くとらえれば生の哲学への方向性も併せて模索する予定です。以下のテクストをお読みいただいてから参加されると、理解が深まると思います。
テクスト: 矢倉英隆『免疫から哲学としての科学へ』第5章、第6章(みすず書房、2023)
参加予定者には、あらかじめ資料をお送りします。
参加を希望される方は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
会のまとめ
サイファイカフェSHEが札幌で初めて開催されたのは2016年3月2日(土)になりますので、今回は丁度10年目に当たる記念すべき会となりました。最初の会場は今はなく、時の流れを感じざるを得ません。この間、多くの方に参加していただいたお陰でここまで継続することができました。改めて皆様に感謝いたします。これからは、これまでの10年を振り返りながら歩むことになりますが、変わりないご理解と積極的な参加をお願いいたします。
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今回は、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読む会の最終回であった。過去3回において、免疫学の歴史と、個体レベルと生物界レベルにおける免疫学の成果を振り返ったが、今回は、それらの内容について著者が加えた独自の試み――著者は、「科学の形而上学化(MOS)」と言っている――を検討する会となった。
「免疫の形而上学」と題された第5章のエピグラフに、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド (1861–1947)の次の言葉を選んだ。
The guiding motto in the life of every natural philosopher should be, "Seek simplicity and distrust it.“
すべての自然哲学者の人生を貫く座右銘は、「単純さを求め、そしてそれを疑え」 でなければならない。
この言葉に最初に出合った時、次のように理解し、これこそわたしが歩むべき道であると直観したのである。すなわち、科学は複雑な自然を分節化、単純化して説明することを目的としているが、われわれは科学が出した単純な結論を最終的なものであると錯覚しやすい。それゆえ、科学が行う自然の単純化の過程はあくまでも最初のステップであり、単純ならざる自然のより深い理解に至るためには、科学の成果を考え直さなければならない。その過程で有効になるのが、哲学であり形而上学であると捉えたのであった。この考えを基本に据え、免疫学の成果と向き合うことになる。
まず、第4章までにやったことは、生物界において免疫と呼ばれる機能を系統樹に沿って検討し、そこに見られる最小の共通要素を免疫の本質的要素とすることであった。その結果、1)認識、2)情報の統合、3)適応的な反応、 4)記憶がすべての免疫過程に見られることが明らかになった。このやり方は、ソクラテス(c. 470–399 BCE)が1つの性質(例えば、賢明さ)について検討する際に取った方法――すなわち、様々な行動に現われる賢明さに共通するものを明らかにすること――と同じで、アリストテレス(384–322 BCE)が本質を取り出す作業であるとしたものである。
プラトン(427–347 BCE)は、変化の中にある知覚対象物とは別に、その中にある普遍の本質的なものを知ることができるのではないかと考え、形相(イデア)と名づけた。このような考え方は「方法論的本質主義」と呼ばれ、学問の課題を隠されている本当の姿(本質)の発見に置くものである。プラトンの場合、それは始祖の中に発見されると考えた。
この考えと対極にあるのが「方法論的唯名論」 と名づけられたもので、普遍や範疇などは存在せず、言葉があるだけだとする立場である。その課題は、対象の真なる本性(本質)を見い出すことではなく、様々な状況下でどのように振る舞うのかを記述し、そこに規則性の有無を確認することである。例えば、「エネルギーとは何か」を問うのではなく、「エネルギーはどのように利用できるのか」に興味を示し、現代の自然科学が用いている考え方にも通じるものである。このことを逆に考えると、わたしが免疫について行う解析は、現代科学が扱う範囲を超えていることが見えてくる。
ここで、免疫を形而上学化するために必要となる本質的要素として抽出された事実をまとめておきたい。まず、免疫は細菌からヒトに至るすべての生物の生存に不可欠であること、構造やメカニズムに関わらず、免疫には4つの機能的要素――① 刺激の受容 ② 情報の統合 ③ 適切な反応 ④ 経験の記憶――があり、これは神経系が担う認知の機能要素と重なること、さらに、免疫はオーガニズム全体で担われており、身体的防御だけではなく、精神・神経・内分泌などの他の機能と一体になり制御していることなどが明らかになってきた。
このように、生命と一体になり全身で機能している免疫像が浮かび上がってくるが、これはスピノザ(1632–1677)の重要な概念である「コナトゥス」――努力、試み、傾向などを指す――と驚くほど重なり合っている。スピノザの定義によれば、コナトゥスとは「すべての物が持つ自己の存在を持続させようと努める力」(『エチカ』 第3部、定理6)であり、「その物の現実的本質にほかならない」(『エチカ』 第3部、定理7)とされる。生物におけるコナトゥスには、生物の存在を維持しようと努力する能力と、その努力を意識する能力がある。後者はヒトに限られる高次の機能であるとスピノザは言い、コナトゥスを次のように分類する(『エチカ』第3部、定理9備考)。すなわち、
精神だけに関係するもの=意志(voluntas)
精神と身体に関係するもの=衝動(appetitus)
衝動を意識しているもの=欲望(cupiditas)
訳語がイメージさせるところから自由になり、指し示す内容に意識を集中すると、生物に広く分布する免疫は「欲望」(cupiditas)と対応しているように見え、しかもそれがその存在の本質に当たることになる。
免疫において極めて重要な機能である記憶をスピノザはどのように考えていたのだろうか。『エチカ』第2部、定理18備考において、記憶(メモリア)を次のように定義している。記憶とは、「人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結」であり、「この連結は人間身体の変状[刺激状態]の秩序および連結に相応して生ずる」ものであるとしている。具体的には、身体は記憶の原因となる外部の物体と相互作用した時に、身体に変化が起こり、それが精神の中で観念を生むが、その順序は身体の経験の順序に従う。記憶とは、過去の身体的経験の連鎖が精神の中に再現されたもので、再びその刺激を受けた時にはそれに対応する観念を呼び起こすことになる。人間の精神は、身体能力を促進するものを表象し、阻害するものを排除するものを想起する。それを見極めているのが記憶であり、自己保存(コナトゥス)に深く関与している。
免疫記憶の場合、身体的経験が観念を生むということを想像することは難しいかもしれない。しかし、末梢の免疫現象が神経系に記憶として保存されており、それを引き出すこともできるという実験結果が報告されている(Cell 184: 5902, 2021)。具体的には、化学物質で誘導した腹部の炎症(腸炎や腹膜炎)により、大脳の特定部位(島皮質)のニューロンが活性化され、炎症回復後にニューロンを再刺激すると炎症が起こるという報告である。スピノザが観念と言ったものに直接対応するとは言えないかもしれないが、少なくとも身体的経験の情報が何らかの形で神経系に保存されるということは言えるのではないだろうか。
ロシア出身で20世紀前半にパスツール研究所で活躍したセルゲイ・メタルニコフ(1870–1946)は、免疫と神経との直接的な関係を示唆する次のような言葉を残している。
「動物を免疫することは、細胞の感受性をコントロールしている神経の中枢を免疫することである」
21世紀においても、ジョナサン・キプニスがメタルニコフと重なる主張をしている。
「免疫システムの役割は、微生物を感知して、その情報を神経系に伝達することである」
このような流れは、免疫と神経、身体と精神の具体的な結びつきが、これからさらに実験的に証明される可能性が高いことを示唆していると言えるのではないだろうか。少なくとも、そのように期待したいものである。
ところで、スピノザのコナトゥスには道徳的側面が含まれていることが指摘されている。
人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。(『エチカ』第4部、定理39)
つまり、運動と静止のバランスを保つのは善であり、それを乱すのは悪であるということは、生物学的極性(正常と病理)の制御に規範性を見ていると言えるのではないだろうか。この点に関して、フランスの哲学者ジョルジュ・カンギレム(1904–1995)の生物学的規範性(normativité biologique)の視点から省察してみた。
カンギレムの規範性は、一般的に言われる規範や規則に準拠しているという受動的な状態にとどまらず、規範を変え、時に新しい規範を作り出すという能動的な能力を含むもので、創造性さえも求められる。彼は、統計によって決められる「正常と病理」を退け、病気とは規範性の欠如ではなく、新しい規範を作る絶好の機会であり、人間内部で自然が行う「努力」であると捉えた。すなわち、規範性とは生命のダイナミックな極性(正常対病理)を制御するもので、まさに免疫が体現しているものであると言えるのではないだろうか。ここまでの成果を次のようにまとめてみた。
生命の本質に免疫があり、免疫の本質には生物学的極性を制御する規範性を伴う「心的」性質が包摂される。
ここで「心的」という言葉が出てくるが、それが何を指すのか問題になるだろう。ただ、免疫の本質にあるとした上述の4つの過程を認知と定義したので、人間が想像する「心」とは異なるものの、精神の原初的な形、あるいは広義の精神性をそこに見るという見方も成り立ち得ると現段階では考えている。
このように、「コナトゥス」や「規範性」という概念が免疫に当てはまることから、免疫さらには生命自体に倫理性があることが見えてくる。この事実は、現在の生命倫理が生命を対象として人間が見て判断しているところから、生命自体が持つ倫理を聴かなければならないところに視点を移動させることを促しているのではないだろうか。換言すれば、これからの生命倫理には、自己を保持するために生の倫理的判断を担っている免疫との協働が求められていることを示している。このような展開は、「科学の形而上学化(MOS)」が持つ大きな効果の一例と言えるだろう。
最後に、すべての生物には免疫という認知機能(心的要素)が具わっていることが明らかになったところから、すべての存在には心的要素があるとする汎心論との共通性が検討された。また、免疫は内外の環境にある「意味」を汲み取る原初的な精神活動の萌芽であり、自然の中で働いている最古の知の形態であると捉えてはどうかという提案があった。これは古代アニミズムへの回帰などではなく、「思考するものとして自然を捉え直す」という現代科学に基づく新たな自然哲学であるとの宣言であった。今後、これらをベースにどのような生の哲学が展開されるのか、興味を持って見守りたいものである。
この日はディスカッションが盛り上がったせいか、懇親会の2次会まで開催された。
(まとめ:2026年4月13日)
参加者からのコメント
◉ 平素より大変お世話になっております。サイファイカフェSHE札幌の10年目本当におめでとうございます。昨日も大変勉強になりました。教える側になってしまいましたが、新しいことを純粋に学ぶのはやはり楽しいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
◉ 第16回サイファイカフェSHE札幌に参加させていただきありがとうございました。『免疫から哲学としての科学へ』の第5・6章につきましては、私にとってこのご著書の中でも特に感動的な部分であったと思います。「コナトゥス」「免疫と神経」「規範性」「心的性質」「汎心論」等の記述を読み,また先生のお話しをお聴きすることにより、免疫の世界が大きく膨らみ、免疫の大宇宙の中を旅行しているような気分を味わうことができました。その後の議論や、懇親会でのディスカッションも大いに楽しませていただきました。次回のカフェを楽しみにしております。
◉ いつも、有意義な会を開催して頂き、ありがとうございます。今回は、科学の形而上学化ということで、哲学に関する話題が多い会でした。哲学には門外漢の私にとって、少し哲学が分かった気になった有意義な会でした。「哲学は現代数学に似ている。自由な思考の羽ばたきを特徴としている」という印象でした。「生」の特徴として「規範性の創造」が議論されましたが、「創造」には「自由な思考の羽ばたき」が必要であることを考えると、「生と哲学は相性が良い」と勝手に考えたりしました。全くの独断ですが、少し矢倉先生に近づけたようにも思いました。次回は、「現象学」ということで、私は「そんな言葉を学生の頃に聞いたことがあるな」程度のレベルなのですが、非常に楽しみにしています。
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